2013年12月8日日曜日

『かぐや姫の物語』と『風立ちぬ』を二つセットの映画としてみる

かぐや姫の物語、公開されてしばらくたちましたがみましたでしょうか。

風立ちぬは見たけど、かぐや姫は、なんかみるきしないなあという人も、多いと思います。
風立ちぬを見た方、そして風立ちぬをみて、むむむ、と思った方、そしてジブリの宮崎監督の親子喧嘩が好きな人や、盟友・高畑監督とのなんだかんだが好きなジブリウォッチャーの方は、みにいったほうがいいですよ。

この感想は、ネタバレもないので、未見の方も多分、大丈夫です。

インタビューで、かぐや姫のプロデューサーの西村氏が、
「宮崎駿は大空に憧れた少年の話を作った。
高畑勲は大地に憧れた少女の話を作った。
ふたりは実は同じような話を作ってるのかもね、

と、制作中のジブリ内部で話していた」
と、いっていたそうです。

なるほどと思って、かぐや姫の物語を思い返してみたけれど、考えれば考えるほど、一見、同じ話をしているように見えて二人の結論はまったく違います。

二郎が憧れた大空はファンタジーそのもの。
日常とかけ離れた飛行機という夢を追い求める。一方、かぐや姫はファンタジーの世界から地上におりて、地球の日常を謳歌しています。
階級を良しとし、どうしようもなく空想にのめり込む「男」よりも、日常こそが、泣いたり笑ったり、雨が降ったり止んだりするのを楽しむ日常、いわゆる「女性」性こそが美しいし、大事なんだという高畑勲。
同じ場所で同じ時間に全く異なる結論、素早い返歌というよりむしろ反論ともいうべき、コインの裏表のような映画を作っている不思議。
宮崎監督はこれをみたあと難しい顔ででてきたそうです。

それをきいて、そうでしょう!と思いました。

宮崎駿は、どうしようもなく空に憧れる業を背負っている。たとえその手が血塗られようが、生きている限り、どうしようもなく空を見上げながら、この世を生きるしかない。
前を向いて生きて行くしかないし、俺は俺を許すし、俺は生きていこう。と、歪な己をさらけだした。 

一方、あくまで高畑勲はひょうひょうと、煙に巻く楽天主義、徒然草のような享楽主義。この大地の色も音も、人間らしい感情も、怒りも、悲しみも、感じるに値する、一見享楽的だけど、生きている間はそれをせつなにも全身で感じ、楽しんで暮らそうと人生を歌い上げる。


これはセットでみるべき映画です。


西洋的なエゴと、東洋的な老荘の思想の真っ向たるつばぜり合い。しかも、両者とも結果として生を肯定的にとらえようとしている。かつての盟友だった2人はもう本当に交わることがないんだろうか。


あー、もう一度、二つともみたいなあ!

映画好き、そしてジブリ好きの方は、ぜひ、両方みて、あーだこーだと友達と話すことをお勧めします!





そして、もしもかぐや姫、すごいよく動いている、アニメーションすごいなあ、水彩画っぽいのいいなあと思う人は、ぜひ、となりの山田くんをみてみてください。
まじでめちゃめちゃよく動いています。まあ、でも僕が今まですすめた人は誰もみてくれませんが、こうやって僕がすすめても見てくれる方がいるのかどうかわかりませんが、ほんとにおすすめです。
巨匠、高畑監督のチャレンジャーっぷりをみることができます。



それから、、『おもひでぽろぽろ』の背景美術の力強さ、水彩表現もあらためてみるとほんとにきれいでした。この時代からずっと狙ってたんだなあと思うとすごいですね。


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