2008年7月6日日曜日

萌えとApple製品

突然ですが、「萌え」っていうのは、一時のはやりではなく、今後廃れない概念になるはずだと感じています。
と同時に、たぶんこの時代を象徴する言葉になると思っているわけです。

これを説明するには、まず「萌える」とはなにか?を考えなくてはなりません。
そのためには、「かわいい」という概念と、「萌える」という概念の違いを説明することがわかりやすいでしょう。

まず「かわいい」ですが、これは形容詞です。つまり「彼女(あの猫)はかわいい」あるいは「彼女(あの猫)がかわいい」となり、主語は、彼女、あるいは猫なのです。
一方で、「萌え」ですが、これは動詞です。「私がメイド(あの猫のしぐさ)に萌える」
つまり、「かわいい」の主体が彼女であるのに対し、「萌え」の主体が自分にあるわけです。

もっといえば、「かわいい」は客観表現(評価)She isなのにたいし、「萌える」というのは、かわいいと思う自分の感情の吐露、すなわちI feel なわけです。
なになにが私の琴線に触れる。
つまり、自分を表現する手段としての萌えであるわけです。
私はなになにに萌えるということは、自己開示の手段であるわけです。
これは、「萌え」が派生表現として、「鉄道萌え」だったり「あるコスプレ萌え」だったり、フェティシズムと明確な結びつきをもっていることからもみてとれるでしょう。

すなわち「なになにもえーー」という言葉は
「なになにはかわいい」という意味ではなく、「なになにをかわいいと思う私」ということをはからずも意図しているわけです。

萌えという言葉がインターネットを中心に普及したこともこれと関係があると思います。なぜなら、インターネットというのは、自分の顔を隠したまま、同好の士を探し、触れ合うのに実に適しているためです。
「なになにもえ」というのが、ある種の媒介となりコミュニュケーションを生み出しているわけです。しかしそこで語られる言葉は、そもそもが客観評価ではなく、自己の感情の吐露から始まっているため、じつにもりあがるものの、なにかを生み出したり、論理的な討論になることは期待することはできないわけです。
「なになにをかわいいと思う私」と、「なになにをかわいいと思う僕」がぶつかっても、そもそもの発言が自分への興味をもとになりたっているわけですから、他者への興味にうすいわけです。
他者への興味の薄い会話に、期待されのは、クリエイティブを生み出すことでなく、他者への理解ではなく、その場の瞬間的な盛り上がりとストレスの解消ではないでしょうか?これがまさに、2チャンネルなどの掲示板で行われている現象の一端(もちろんすべてではありません。あくまで一部です)だと思います。

価値観の多様化による客観的基準から主観的基準の重視。
「萌え」という概念が一時の流行や、オタクと呼ばれる人に固有の流れではなく、"I"phone やら"You" tube、ブログやら
に端的にあらわされるように、自己主張を始めた個人という現代の大きな流れからきている言葉のように思います。

今までの日本語にない「萌え」 I feel という考え方が、今後どうなっていくのか、実に楽しみです。

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